タイムカプセル

  • 水野 真作 作品52

  •  和田二三子博士はスポーツ万能である。彼女は特にテニスが得意で、いつも研究所のテニス大会では優勝している。僕は彼女と混合ダブルスを組んでいるので、おこぼれで優勝させてもらっている。パートナーが和田さんでなかったら、まず優勝は不可能だっただろう。
     研究の方は、僕とは畑違いで何やら難しい生化学をやっているらしい。回りの同僚でさえちょっと最近おかしいんじゃないのかと、ささやき声が聞こえてくるほど研究熱心である。しかし、研究以外の彼女は六本木のディスコによくいるようなトンデいる女の子で、その界隈ではみーこちゃんと言うとすぐに分かるほど有名である。
     ある晩のことである、彼女から電話がかかってきた。何でもいいからとにかくすぐに研究室に来てくれと言うのである。こんなことは初めてのことだった。彼女の声は落ち着いている口調ではあったが、かなり興奮を隠している様子だった。すぐに僕は夜の研究所へと車をとばした。
     彼女の研究室のドアを開けると、コーヒーの香りが漂っていた。
    「あら、早かったのね。もう少し待ってね、いまコーヒーができるから。あなたの好きなブルーマウンテンよ」と、コーヒーサイフォンを指さしながら言った。コーヒーを飲みに来たんじゃないぞと、怒りたかったが彼女の顔は、いつも会うテニスコート上の顔ではなかった。正に研究の鬼の顔であった。しかし、彼女はかわいくて美人だ、これが本音である。
     二人の間にしばらくの沈黙があった。
    「さあ、できたわ。砂糖はいくつだったかしら?」
    知っているのに、わざとらしかった。おそろいのコーヒーカップにコーヒーを入れると、どのように研究に使っているのか用途不明のステレオセットにスイッチをいれ、レコードをかけた。普通の女の子だったらば、この後は想像出来るのだが、彼女のことだから僕をモルモットにしかねない。このコーヒーの中に何かが入っているのでは?……考えすぎだ。彼女が僕をモルモットにする理由は一つもない。彼女はマジシャンではないので僕の目をごまかして何かを混入する事もできる筈もない。被害妄想だ。
     彼女が先にコーヒーに口をつけた。
    「ごめんなさいね、こんなに夜更けに呼び出してしまって。さあ、どうぞ」
    「いいんだ、ともかく用はなんだい?」
    「去年、私がアマゾンのジャングルの原始生活をしている部族の村に行ったのを覚えているかしら」
    「ああ、知っているとも。でもなんでいきなりそんな話をするんだい」
    「そうせかさないで。ものには、順序というものがあるの。そこで、別の目的で調査をしていたら、未開の土地の風習でよく行われている麻薬パーティがあることが分かったの。でも、そこのパーティは他の土地のようにタバコのようにして吸うとか、粉末状にして鼻から吸うというようなものでなかったの。それはコーヒーだったのよ」
    ゴホッ。
    僕は、口にしていたコーヒーをむせてしまった。
    「そのコーヒーは本物よ、心配しないで。いい?話を戻すわ。
     そのコーヒーの木は原種に近い品種で、味は苦くて飲めたものではなかったわ。でも、覚醒剤のように頭が冴えて仕事がてきぱきとできるようになったの。LSDとか、マリファナのような幻覚症状はないし、常習性がでるというものでもなかったの。私は、かなり実用性があると思って日本に持ち帰ったのよ。帰国してすぐに分析機にかけてみたところ、予想に反してその分析結果は従来の覚醒剤の成分と同じだったわ。それも極量。コーヒーとすれば普通じゃない量だけれども、そんなに微量では絶対にあのような効果を起こさない量だったから、私はとても不可解だったの。
     それでさらに綿密な分析を開始したのよ。そうしたら分子構造が同定のみならず、予想すらできない物質の存在が発見できちゃったの。まずそれを精製してラットに注射してみたのよ。でも、なんの変化も、異常も起こらなかったわ。さらに、様々の試験をしてみたの。やっぱり期待した成果もなく、普通の生理食塩水と全く同じだったわ。私はコーヒーの成分だから大丈夫の筈じゃないかなと思って、自分でも飲んでみたの。その結果自分自身には何も変化がないように思えたの。
     ところが、反対に外界が変わったように思えてきたの。幻覚とかそういうものではなく、時間が経つのがすごく遅く感じたのよ。だからといって、100mを走って早く到着するかというと、やはり同じタイムだったわ。これで、体の細胞が活発になったので時間が長く感じたという考えは誤っていたことが分かったの。
     また、しばらくその物質を飲んでいると、新しい発見があったのよ。それは、一つ一つの仕事を個々にやってもそのスピードは変わらないけれども、同時にその二つをやると能率があがるということなの。普通の常識では二つの仕事をいっしょにやれば、単に二倍の時間がかかるわけではなく、それ以上かかるのはよく知られていることよね。ところが、その物質を飲んだ量と仕事をこなした量を見比べてみるとかなり関係があることが分かったの。でも、それは何故かは分からなかったわ。その物質とはこれよ」と、彼女は砂糖壷の横にある小瓶をとった。その中には砂糖に似ていて、粒子が細かい白い結晶体が入っていた。
    「これは私の直感、女の直感なのよ。これからはあなたの領分だと思うの」
    「冗談じゃない、僕は理論家だぞ。それも量子相対力学の」
    「だからぴったりなのよ」
    「作り話としては面白かったけれど、本当にそんなことを信じているのかい。悪いけど、そんなばかばかしい研究はできないね。でも、ちょっとこれ飲ませてくれ」とコーヒーにその白い結晶体を入れて飲んだ。これで運命が変わった。僕はこの物質の研究の虜になってしまったのである。
     それから数ヶ月、僕の研究の結果、理論的には不可解にもかかわらず、現象面で見るとそれを飲んだ人の時間の位相と振幅を変えるのが分かった。実際に観測できる時間の実数部を一定にしてその位相を変えるとその絶対値が大きくなり、時間が長くなるのである。
     したがって、あの物質は時間の虚数部を生体内に作り出す画期的なものだった。実数部は同じなのだから他人からは気付かれずに生活は全く普通にでき、時間を有意義に使うことができる。実験動物の結果をみても全く害はない。効きめは普通の世界での約一日であるから、必要のない時は飲まなければ良い。
     和田博士にこの効能書きを知らせると、彼女は特許をとって製薬会社に売り込んだ。
     しばらくして、その物質の構造も分かり人工に作る製法も開発され、その会社からタイムカプセルという名で売り出された。正に時間を飲むのである。飲んだだけ体内の酵素によって時間に変化するのである。タイムカプセルを飲むことを「カプせる」と言うような流行語もできた。
     この薬は、主に寝る時間もなく、とても忙しい流行作家、デザイナー等に重宝がられ、受験生にも人気があった。もともとはコーヒーから抽出した物質なので一般的な飲み方はコーヒーに添加する方法である。無色無味無臭だからどんな料理にも入れることも出来た。
     何人かの研究者が、その時間位相シフトの解明を試みたが、物理的化学的な原理さえも未だ分かってはいない。それは、雲を掴むような研究だった。事実、時間が複素数で表され、しかもその虚数部が薬物でコントロールできるということは常識を越えていて理解しにくかった。
     これはコンピュータのTSSシステムの特定の状態、つまり一つの端末からのJOBが1秒間当たり10msだけCPUを使用することを通常の状態とすると、二つのJOBを同時にその端末から流したことに似ている。これは実数部が普通の10msで虚数部がマルチタスクで走る時間に相当するだろう。したがって虚数部を付けて実際の仕事量を多くしたものと考えられる。ただ、コンカレント に走るJOBは2つだけという制限はある。実際に観測されるのは実数部だけなのだから……。
     と、ここまで考えたら、ひょっとして本当にコンピュータも複素時空間上で動作させることが可能ならば、実際の性能よりも仮想的な高性能がでるにちがいないことに気付いた。まだこれは理論的にも工学的にも可能かどうかは分からなかったが、僕は勝手に仮想ターボシステムと名付けた。これを付加すると1桁はおろか2桁も3桁も高速になる筈である。理論上では位相角を90度にすれば無限大のスピードになる。実際にそれを動かすには、無限大のパワーを必要とするので不可能ではあるが……。どんなおもちゃのコンピュータでも(当然ファミコンも)ちょっとした大型コンピュータよりも高速演算が出来るようになってしまう。スーパーコンピュータの大革命である。
     数年後、その仮想ターボシステムは、数人の天才コンピュータ技術者によって完成された。完成に導いたヒントはあの物質の位相幾何学的分子構造であった。ある条件でその位相幾何学的構造を作ってやると、時間の位相がずれるのである。そのコントロールを半導体技術を用いて純電子的に行なったのである。しかし、残念ながら未だ実際の時間位相シフトの原理は分かってはいない。
     この仮想ターボシステムは爆発的に売れた。
    現存する全てのコンピュータに付加できるからである。
    この時間位相シフト法は、交通システムにも応用できた。瞬間的に高エネルギーを使って位相シフトを行うと、実時空間から姿を消し虚時空間に転移する。このことを虚数変換と言うが、この虚時空間である法則に従って位置を移動し、次に逆虚数変換を行うともとの実時空間に戻って、ここでは超光速運動を行ったのに等しい現象が現れる。だから恒星間航行も気軽にでき、ロケットとかスペースシャトル等は古代の遺物となった。


     ある日、時間が逆行し始めた。時間エネルギーが実時空間から虚時空間へと流れ過ぎたのである。虚世界の時間エネルギーが過飽和になり実世界に逆流してきたのであった。実世界全てが同時に時間逆行を始めたので誰一人それには気付かなかった。そして、どこまで逆行するのかも分からなかった。


    「これは私の直感、女の直感なのよ。これからはあなたの領分だと思うの」
    「冗談じゃない、僕は理論家だぞ。それも量子相対力学の」
    「だからぴったりなのよ」
    「作り話としては面白かったけれど、本当にそんなことを信じているのかい。悪いけど、そんなばかばかしい研究はできないね。でも、ちょっとこれ飲ませてくれ」
    「どう、時間が長くなったように感じない?」
    「いや、全然。さっきの話面白かったよ。君は、きっとSF作家になれるよ。さて、もう遅いから帰るかな……。
     あっ、そうそう、面白い映画を渋谷でやっているから今度の日曜にでもいっしょに見に行かないかい?」
    「ええ、いいわよ」と幾分むっとした顔で和田二三子博士は答えた。

    −おわり−


    Copyright 1996-2007 by Makoto Mizuno. All Rights Reserved.
    rademarks shown here are the property of their respective owners.