左腕

                作品 49



 「おはよう」

威は台所でスクランブルド・エッグを作ってい

る妻の奈保子に声をかけた。

「あら、日曜日なのに今日は早いのね」

と、新婚時代と違って妻はそっけなく答えた。

彼は、あくびをしながらテーブルの上に無造作

にのっている合成卵のパックを取り上げた。

「またスクランブルド・エッグか、たまには目

玉焼が食べたいな」

と、あきあきした仕草をした。

「我慢してね、でもね、今時手料理を食べさせ

てあげる奥さんなんてめったにいないわよ。今

度本物の卵を見つけたら作って上げるわ」

「いつになることやら」

威は、諦め顔で洗面所に向かった。

 いつものように髭を剃り始めた。慣れた手つ

きで素早く剃っていく。彼は髭剃り機よりも安

全剃刀が好きだった。肌の感触もいいし、機械

のいやな音もない。しかし、この古めかしい安

全剃刀は、とても手に入れにくいものだった。

妻の奈保子は、夫のために細々と昔の製法で安

全剃刀を作り続けている老人から直接買ってき

たのである。

 と、剃刀を持った手が止まった。

「おかしいな」

何かが違う。何かがおかしい。剃刀のせいだろ

うか。いや、違う。その何かとは非常に微妙な

ものだろう。気付かなければそれですんでしま

うようなことだ。しかし、もう遅い。彼は気付

いてしまったのだ。威は、探求心が旺盛で分か


らないと気がすまないたちであった。

 顔か?

鏡をじっとみつめた。いつもとかわらぬ、いい

男だった。

どうも分からない。

鏡に写っている安室奈美恵のポスターの端がはが

れかかっているからだろうか。彼は、丹念にそ

の端を壁に延ばして張り付けた。もう一度、鏡

に向かったがやっぱり何かがおかしかった。こ

ういう事は自分では分からないものなのかもし

れない。

彼は台所に行って妻に声をかけた。

「何か変なんだ、ちょっと見てくれ」

妻は、少しだけ振り返って夫をみた。

けれども、すぐに朝食作りに戻って背を向けた

まま答えた。

「そう?どこも変なところはないわよ。早く髭

を剃っちゃいなさいよ」

彼は、洗面所に戻った。改めて鏡をのぞき込む。

やっぱり分からない。

「まあ、いいか」。

再び髭を剃り始めた。やっぱり安全剃刀の肌ざ

わりは心地よかった。

 しばらくして、剃り終わった顔を洗おうとし

た時だった。威はやっと異変の原因に気付いた。

「左腕がない……」

鏡に写った彼の姿には左腕が欠けていた。

「おい、見てくれ、左腕がないんだ!」

台所からフライパン片手に出てきた妻は、驚いた

声で叫んだ。

「あら、本当。どうしたのかしら」

「畜生、昨日何処かに落としてきちまったんだ」

と、外にとびだした。


 核シェルターの外は雨だった。

放射能を含んだ死の灰を主成分とするどす黒い

雨だ。昨日天気予報で死の灰注意報がでていた

とおりだった。常識的には、こんな日に外出は

しない。しかし今は違う、なにがなんでも落と

してしまった左腕を捜さなければならない。腕

の一本や二本のことなら、別に捜さなくとも新

しい合成腕を買えば済むことだったが、彼の左

腕は彼の頭部以外で生まれ持っての最後の肉体

だったからである。放射能で蝕まれずに残って

いた左腕を紛失するとは、信じられなかった。

 「おっと、失礼」

下をみながら歩いていたら誰かにぶつかってし

まった。良く考えてみると、この危険きわまり

ない雨の中を歩いている人が自分以外にいるの

が不思議だった。

『どんな奴だろう』

威は、放射能防護マスクのなかを、ジロジロと

のぞき込んだ。

「何かおかしいですかな」

「いいえ、いや、その……こんな日になぜ歩い

ていらっしゃるのですか」

「ほほう……」

相手の男は、少し微笑んだ。

「私は、雨の中を歩くのが好きなんですよ」

「雨の中を? それはまた変わっていますね」

「当世、外へ一歩もでなくてもすべて事足りて

しまうご時勢だ。何もわざわざ外へ、それも放

射能雨の日に出歩くのはおかしい、と、こうあ

なたは思うのでしょう」


「えっ、ええ」

「私はね、子供のころから雨の中を歩くのが好

きだったんですょ。特に水溜りがなんとも言え

なく大好きなんでね。今ではこの黒く汚い雨の

中を歩いていると文明のありがたさがよく分か

るのですよ。核シェルターの中にいては分から

なかったありがたさがね」

「はぁ、そんなもんですか」

「そうですよ。ところであなたは?」

「私はちょっと捜し物をしているんです」

「ほう、ではあなたの捜していらっしゃる物が

早く見つかるようにお祈りしますよ」

「どうも」

威は去って行く男の後ろ姿を見送った。



 公園に出た。

昨日彼はここのベンチで左腕を外したのを覚え

ていた。

そこには犬がいた。一見して野良犬だ。飼い主

が死んだので野生化したのだろう。核戦争が始

まる前は、野良犬なんて一匹もみあたらなかっ

たのだが。その犬の体は、黒い雨でぐしゃぐしゃ

で、やせ衰えてあばら骨が放射能の影響でむき

出しになっていた。かわいそうだが、もう長く

はないだろう。

 おやっ、何かをくわえている。

まさか……。

「おい、犬、野良犬、何をもっている、ちょっ

と見せろ」

彼は、犬に近付いて行った。犬は、口にくわえ

たままうなった。それは、彼の左腕に似ていた。


彼は、自分の腕を取り戻すためにもう見境がな

くなっていた。近くの芝生に刺さっていた金属

製の小さな看板を掴むといきなり犬めがけて降

り下ろした。犬は、弱っているのにもかかわら

ず敏捷にそれをよけた。

 しかし、それ一回だけだった。気が狂ったよ

うに振り回る棒は、犬の頭を割った。犬は、地

面に倒れた。彼は、それでもなお何度も何度も

叩いた。あばら骨が折れて内臓がぐちゃぐちゃ

になって出てきた。威は、それでもまだ叩き続

けていた。

 しばらくして、何かを思い出したように叩く

のを止めた。犬がくわえていた物を拾い上げた。

それは、腕ではあったが人工のもので右腕だっ

た。たぶん死んだ飼い主のものなのだろう。威

は、それを投げ捨た。

 もう夕方になって雨があがっていた。

昨日歩いた道は全部調べ尽くしたが、見つから

なかった。交番にも行ったが左腕の落としもの

はなかった。もう諦めるしかなかった。せっか

くの日曜日がだいなしになってしまった。



 「ただいま」

「お帰りなさい。どう、見つかった?」

「いや、見つからなかったよ」

「そう、じゃあ明日合成腕を配送してくれるよ

うにデパートに注文するわ」

と言って、ネットワークに繋がっている通信タ

ーミナルで彼の腕のサイズ等をデータとして送っ

た。

「おゃ、いい匂いだね」

威は、鼻をクンクンとさせた。かなり、久しぶ

りの匂いである。これは焼いた肉の匂いだ。そ

れも本物の肉の匂いだ。安っぽい合成肉ではな

い。

「今夜はステーキよ」

「おい、今日肉の配給があったのか?」

「ううん。ちょっとね」と言って妻は少し笑っ

てみせた。

二人は、ステーキを腹一杯食べた。

 そして威は寝室に入る前に少しだけ考えた。

失ったものは何だったのかを。



                             −おわり−


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