恋するコンピュータ

                 作品76



 さわやかな秋風が君の長い髪を通りすぎる。

君が僕の腕枕でうつらうつらしている木陰の下の

昼下がり、誰も僕達二人を気にしない。

 都会の公園にも、まだ小鳥はいるようだ。

あの綺麗な鳥はなんという名だろう。

空にぽっかりと浮かぶ白い雲は、心を無色透明に

してくれる。

 科学文明と、雑踏社会から逃れることの出来る

ほんのひとときの昼休み。

僕が結香の長い髪を撫で回していると、彼女は何

かを思い出したかのように目を覚ました。

「あら、もうこんな時間。はやく戻らなきゃ」

結香は僕の腕時計を見ながら立ち上がった。

 俺の結香は、隣のビルのある会社の社長秘書だ

けあって、なかなかの美人である。



……などと、俺は公園のベンチで同僚の女の子と

楽しくおしゃべりをしている結香さんを遠くから

眺めながら夢想していた。

 俺は、しがないソフトウェア技術者で、彼女の

ような美人とは縁のない仕事をしている。ソフト

ウェア技術者と言えば聞こえはいいが、結局の所

デバック専用の職人である。口の悪い同僚は、考

える殺虫剤とか、毒が強過ぎるから特に女性は近

付かないようにとかいいふらしているようだ。と

んでもない奴らだ。自分がもてないからと言って、

俺まで陥れるのはもってのほかである。

 しかし、こう言われるのは俺のデバッグ能力が

ずば抜けて秀でているからであることは確かであ

る。だから、ある意味ではまんざら悪い気もしな

い。      

 俺はその腕を買われて、ある日、国家的なプロ

ジェクトの重要なマシンのデバッグを依頼された。

搬入されたそのマシンは、普通のコンピュータで

はなかった。説明をしてくれたこれを開発した鶴

田博士は、一種の自己組織型並列計算機だと言っ

ていた。つまり、このコンピュータは数多くのCPU

を持ち、各々のCPUで走るプログラムをその入力

に従って自分自身のプログラムで変えながら、さ

らに他のCPUとのコネクションの仕方も変えなが

ら仕事を続ける計算機の事である。また、このマ

シンの特徴としては、自分の走るプログラムを変

えるだけではなく、他のCPUで走っているプログ

ラムも変更できることである。

 早い話がこれは、高度の人工知能マシンで、自

分自身で思考できるのである。従来の高性能人工

知能マシンは、物を考えると言う触れ込みでも、

結局は確率的な、あるいは決定論的な思考の仕方

をベースにしていた。しかし、この自己組織型並

列計算機は本当に思考が出来るのである。人間の

脳にぐっと近いのである。

 ところがこの計算機にバグが発生したのである。

自分自身で作ったプログラムに誤りが出てきたの

だった。原因・場所は不明だけれども、バグキラ

ーの俺が急遽起用されたという訳である。だが、

百万個もあるCPUのうちの何処に虫が潜んでいる

かを調べるのは至難の技ではない。それも、一ヶ

所か、何十ヶ所かも分かってはいない。

 電源を切ればいいと、ちょっと電気に詳しい人

は考えるだろうが、各々のCPUは超小型原子力電

池で動作しており、このコンピュータ自体のメイ

ンスイッチというのは存在しないのである。だか

ら、このコンピュータを止めるには物理的に、爆

弾か何かで破壊しなければならない。だがこんな

ことは、出来るはずもない。だからオンラインで、


動作をしている状態でデバッグをしなければなら

ないのである。このコンピュータを設計をした鶴

田博士でさえ、もうお手上げになっていた。いく

ら俺が天才的なソフトウェア技術者だとしても、

普通の方法ではデバッグ出来ないことをすでにデ

バッグを試みた技術者達が知っていた。俺の存在

は、彼らにとって気休めである事も事実であった。

彼らが無能力ではなかったという証拠の一駒にす

ぎなかった。こういうことは、俺のプライドが許

さない。何としてでもデバッグしてやるのだ。

 先ずは、最良のデバッグ法を案出しなければな

らなかった。しかし一朝一夕で考え付くものでも

なかった。だから、このコンピュータとチェスで

遊びながら考えることにした。なかなか強かった。

いや、かなり強かった。俺も同僚とやればチャン

ピョンなのに、どうしても勝てなかった。本当に

このコンピュータには虫がいるのだろうか。疑問

を感じてしまった。

  俺はこう考えた。このコンピュータに対するデ

バッグとは、人間で言えば精神分析みたいなもの

で患者との対話が必要なのである。だから俺は、

コンピュータと対話し続けた。コンピュータ臨床

心理学と言うものがあるとすれば、まさにそれで

ある。これと平行して人間の心理学も勉強し始め

た。その結果、コンピュータは反抗期に入ってい

るとしか思えない行動様式を示していた。つまり、

人間が一度は通るこの時期をおそるべきことに

コンピュータも経験しているのであった。したがっ

て、このバグと考えられている状態は時間だけが

解決してくれると考えてもいいかもしれない。だ

から、自然に直るのを待つしかないという結論に

達した。

 ところがよく考えてみると、俺はデバッグをす

ることで雇われているのである。だから、それま

で一生懸命にデバッグ作業をしている振りをして

いなければいけないのだった。

 現在の反抗の様式は、やさしい問題をでたらめ

にやるが、難しい問題ほど真面目に解くのである。

一種の天邪鬼である。だから、とんでもなく難

しい質問をすれば喜んで解いてくれるのである。



  俺は結香さんに一目惚れだった。まだ、口もき

いたこともなく、ただ、美人の彼女に憧れている

だけなのだ。なんとかして、彼女を物にしてやろ

うと思っているのだが、どうもいい案が浮かばな

い。物は試しと言うことで、コンピュータにこの

解決法を質問してみた。ところがコンピュータか

ら逆に質問責めにあってしまった。「惚れるとい

うことは、どういうことか」から始まって、愛と

は、性とは何か、そして結婚とは何か等と哲学的

な質問が矢のように飛んできた。俺は哲学には疎

いので、図書館からデータ・モジュールを借りて

来てはコンピュータに読ませてやった。しかし、

読めば読むほど不可解で不条理な事ばかり増えて

行くので、俺の質問には永久に答えてくれない可

能性があった。まあ、治療の時間つぶしだからこ

れでいいって言えばいいのだが。

 俺は昼休みに不貞腐れて、公園の芝生に寝ころ

んでいると、結香さんが同僚の女性と話している

のが聞こえてきた。その話によると、結香さんは

彼女の会社で一番チェスが強いと言うのである。

俺はこれだと思って彼女らの前に出て行って、う

ちの最新のコンピュータと対戦してみないかと持

ちかけてみた。不思議なことに彼女は自身たっぷ

りに承知してくれた。

 コンピュータ室に帰ると、コンピュータは新し

いデータをくれと要求してきた。

俺は、チェスの対戦相手を負かしたらそのデータ


を入力してやると条件を出した。当然コンピュー

タは俺の条件をのんだ。

 結香さんとコンピュータの対戦は、俺との対局

に比べると長かった。そして、世界チャンピョン

決定戦ぐらいの迫力があり、その結果、おそるべ

きことにコンピュータに結香さんが勝ってしまっ

たのである。コンピュータは発奮して、結香さん

にもう一局の対戦を申し入れてきたが、彼女の昼

休みはもうほとんど無かった。結局この続きはま

た日を改めて行うことにした。

 結香さんが勝ったことは予想外だった。いや、

ほとんど有り得ない事だった。たぶん、コンピュ

ータのバグにぶち当たったのだろう。そう思いた

い。しかし、そう思えない節もある。俺自身もか

なり強いことを自負しているが、あの対局がかな

り高度のテクニックを使っていたことは確かだっ

た。そして、双方ともかなり先を読んで戦ってい

た。だから、結香さんが本当に実力で勝った可能

性もあると思われた。

 「わたしは、結香さんに恋をしてしまいました」

コンピュータが突然変なことを言い出した。

「なに馬鹿なことを言っているんだ。機械と人間

が恋愛できるはずがないじゃないか」

「恋と言うか、憧れと言うか、彼女のようになり

たい」

「どういう意味だい?」

「私は、彼女との対局中に彼女のレスポンスを全

て解析していました。ところが彼女の戦略は普通

の人とはかなり違っていました。私はそちらの画

期的な方法に興味がいってしまったので、その隙

を狙われて負けてしまいました。これも、手だっ

たようで、彼女の方が一枚上手だったのでしょう

ね」

「そうか、だからあの対局は俺が見ていても良く

分からなかったんだな」

「きっとそうでしょう」

  そこに鶴田博士が入ってきた。

「今ここから出て行ったのは、隣のビルの結香さ

んと違うかい?」

「結香さんです。どうして知っているのですか」

「それより、彼女はここで何をしてたんだい?」

「うちのコンピュータとチェスをしたのですが、

結香さんの方が勝ってしまいました」

「当然だろう」

「えっ、なんですって」

「その答えは、コンピュータが分析をしたはずだ

が」

「普通の人とはかなり違っているということでし

たが」

「その通り。結香さんは、人間では無いんだ」

「えっ」

「隣のビルの会社の、経済戦略コンピュータの人

間型端末ロボットなんだ」

「そ、そんな馬鹿な」

「だから当然の事チェスが強い」

「彼女がロボットだという証拠でもあるのですか」

「結香さんは、私の姉で、このプロジェクトの一

号機で私が二号機なのだ」

「あ、あなたもロボット」

「超人工知能コンピュータの初めは、コンピュー

タを設計した人間達が拡張設計をしていたのだが、

そのアーキテクチャが複雑になるにつれて人間の

手にもおえなくなってしまい、コンピュータ自身

で自分の拡張設計をして、さらにデバッグをもで

きるようになってきたんだ。しかし、どんどん複

雑になればなるほどコンピュータ自身では分から

ないバグというものがでてきて、メインコンピュ

ータの方が時折おかしい答えを出すことがでてき


たんだ。それは外部端末ロボットの私にもすぐお

かしいと分かるようなものだから、あなたにおい

で願ったのですよ」

「そうだったのですか、ところで結香さんはこの

事を知っているのですか」

「知るはずがない。少なくともさっきまでは」

「それから、コンピュータが結香さんに恋してし

まったみたいですが」

「人間に近い感情を持つようになったので、喜ん

でいいようにも思うが」

「恋ぐらいの感情は私にもありますが」

「どういう意味だい?」

「私は、最新型デバッグ専用コンピュータの人間

型端末ロボットなのです」

                             −おわり−


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